« 桜終了。 | トップページ | 大宮飲んじゃうぞ(笑) »

2008/05/01

審判本を読む

これまたしばらく前に読んだ本なのだけど、いいタイミングだからレビューしてみる。
ピエルルイジ・コッリーナの「ゲームのルール」と、上川徹の「平常心 サッカーの審判という仕事」だ。

サッカーの審判という存在に興味があった。試合においては欠かせない役割を担いながらも、ある意味、もっとも軽視されている職業。監督の仕事を評して、「勝てば選手のおかげで、負ければ監督のせい」ということばも聞くが、審判の場合は「勝っても負けても審判のせい」だ。ときには罵声を浴び、海外では身の安全を心配しなければならないこともある。それでいて、有名選手よりも給料は安い。何を思って審判を志すんだろう!?とずっと思っていて、それが知りたくて読んでみたのだ。


さて、この2人はなぜ審判になったのか!? 答えは意外にあっけなかった(笑)。


まずはコッリーナさん。
「サッカーに対する深い愛情があり、自分には才能や技術がなく、したがってサッカー選手としての将来はないと分かったにもかかわらず、何としても第一線で携わりたいという希望があったからだ」(P.151)

上川さんの場合は、Jリーグ創設に伴い審判の養成が急務ということでスタートした育成プログラムに参加したのがきっかけ。ちなみに最初にその打診をしたのは、当時、上川さんが所属していたフジタのサッカー部部長だった石井義信さん。はい、現FC東京のアドバイザーですね。


片や世界No.1審判といわれたコッリーナさんであり、片や日本を代表する審判になった上川さん。両者が主戦場としてきたところは違うけれど、審判が試合の中でどんな役割を果たす存在であるかについては、ほぼ意見が一致している。代表して、コッリーナ本から。


主審というのは、本当の主役である選手たちが規則を守り、最大限の力が発揮できるようにグラウンドに立つ」
「主審は、チームがショーを見せるための助っ人だ
」(以上、P.167)


この役割を果たすため、フィジカルはもちろんメンタルなトレーニングも積み、数日前からコンディションを整え、食生活にも気を配り、試合後はビデオなどで自分のジャッジを見直し、家族をおいて国内国外を問わずさまざまな場所へ出かけていくのが審判の仕事だ。

コッリーナ本では、02年W杯決勝や99年のCL決勝、ついでに02年W杯の日本VSトルコ戦(日本向けに書いた部分なのか、リップサービスという印象が強い(笑))など、読者がきっと覚えているに違いない印象的な試合を例にとって、ここでこの判断を下したのはなぜなのかが詳細に語られていく。なるほど、こうやってゲームをコントロールしていくのか……ということが具体的にわかるのがいい。


ところで、上川さんによれば、審判にとって精神的に不可欠なものは「やる気、勇気、根気、そして平常心」(P.170)だという。中でもいちばん重要なのが「平常心」で、それが本のタイトルにもなっている。

一方でコッリーナさんは、主審には優れた心理学者としての資質も必要だと語っている(P.128)。選手たちの態度や行動の背景にあるものを直感的にとらえ、その後に起きる状況を前もって予測しなくてはならないからだ。そうすれば、審判の判定に意義を唱える選手のリアクションの本質が理解できるのだという。もしそれが極度の緊張や疲労から出たものであれば、ある程度、大目に見ることもあるのだそうだ。


うーむ、サッカーの主審というのは実に大変な仕事だ……ということだけはよくわかった(コッリーナ本には、イタリアの審判制度や、彼の個人的なエピソードなどについての言及もあって、最後まで興味深く読める一冊。おススメ)。

さて、こうした本を読んだうえで、先のゼロックス・スーパーカップでの家本政明主審のジャッジや、大分戦での西村雄一主審の「死ね」発言騒動などをふりかえってみると、Jリーグの一部の主審には試合を裁くにふさわしいメンタルが備わっていないのではないかと疑いたくなるというものだ。

家本主審も西村主審も、国際審判でSR(スペシャルレフェリー)の肩書きをもつ。このSRの制度が始まったのが2002年だから、まだ歴史は浅い。

現段階でSRは9人いる。上川本によれば、J1の全試合をSRが担当するという構想があるので、最終的には10~12人のSRが必要だという。待遇面では、30歳から50歳(Jリーグの定年)までやれるとして、生涯年俸は平均的なサラリーマンよりもいいそうだ(P.163)。日本はサッカー後進国であるにもかかわらず、審判の待遇だけは破格に進歩しているようである(と、半分皮肉ってみたりする)。

SRにふさわしい人材の育成が追いついていないという部分はあるだろうし、SRの頭数をそろえようとするあまり、まだ資質のない人間をSRに任命しているのではないか!?と勘ぐりたくなることもある。そう感じさせる場面というのは、Jリーグの試合に定期的に通っている人であれば何度も見ているはずだ。

先日の大分戦の場合、あの場面で何が起こっていたのかは観客席からはまったくわからなかった。「大分は攻めなきゃいけないのに、こんなところで時間を無駄に使っちゃっていいのかな~」とのんきに見ていたくらいだから。確かに、こんな暴言を主審の口から聞いたのだとしたら、大事な時間を使ってでも抗議したくなるだろう。

西村主審は「死ね」とは言っていないと弁明したそうだが、「死ね」と聞き間違えるような発言をすること自体が問題だし、その前の居丈高に「うるさい」とか言うのもそもそもダメ。主審本人が平常心を失っているし、試合をショーとして見せようなんてことはこれっぽっちも思っていないことが明らかだからだ。

試合前には熱心にウォーミングアップをやっていて感心なことだと思っていたけれど、サッカーの試合を裁くには身体能力だけでは足りないというのは、この2冊の本を読んでよ~くわかった。西村主審はまず先輩の本でも読んで反省するところから始めないとね。

われわれ観客は何かといえば審判を目の仇にしてしまいがちだけど、もちろんそれだけではいけない。コッリーナさんはすばらしい審判だったけど、若いころから完璧だったわけではない。経験を積んでそうなっていったのだ。上川さんは、観客にも審判を育ててほしいという意味のことを書いている。


悪いときのブーイングはまったくかまわないが、いいときには拍手を、難しい試合を無事に終えてフィールドを離れるときにはスタンディングオベーションなどもあれば、次へのモチベーションにつながり、選手同様、審判のレベルも向上すると思うのだが、どんなものであろうか」(P.190)


スタンディングオベーションはどうかと思うけど(笑)、観客が「糞レフェリー」コールを浴びせて悦に入っているようでは、結果として糞レフェリーが増えていくだけのような気もする。観客も本当の意味でのSRを育てる一端を担っていかなくてはならないのだろうね。

そうそう、上川本は充分面白かったのだけど、これは違うでしょう!と思った箇所もあった。

FIFAの求める判定基準と、日本のレベルは同じものだと確信している」(P.222)

今のJリーグを見ていても、そう断言できますか、上川さん。



|

« 桜終了。 | トップページ | 大宮飲んじゃうぞ(笑) »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。